3
施設の中は夕食の真っ最中だった。
大きなテーブルを囲むお年寄りたち。懐かしい光景だけれど、僕はこの日常に飽き飽きして辞めてしまった人間だった。
空の食器を抱えたジャージ姿の女性スタッフとすれ違い、僕は軽く会釈する。

食堂の中では、黙々と食べ続ける老女や、うんざりした表情でスプーンを投げ出す男性の姿が見える。
若い女性スタッフがその男性に近づき、「今食べておかないと、後でお腹が空いても知りませんよ」と諭していた。
思わず苦笑する。本当に懐かしい光景だ。
「聞こえたの?」
加田崎が不思議そうに尋ねた。
「いいえ、口の動きでだいたい分かります」
僕が答えると、加田崎は納得したように頷き、話を続けた。
「熊本から来たんだよね。今はどこに住んでるの?」
「博多区春和町のアパートです」
加田崎は眉を寄せた。
「結構遠いね。車は持ってるの?」
「ほとんど徒歩で移動してます」
「良かったら、うちの寮に引っ越してこない?すぐ近くにあるんだ」
そう言って、加田崎は歩き始めた。僕は答えずに、黙って彼の後をついていった。
話の展開があまりにも早い。
どうも、ここはよほどひどい職場なのではないかという気がしてきた。
施設内をしばらく歩くと、加田崎は突然立ち止まり、振り返った。
「そうだ!今から寮に行こう」
これはブラック企業確定かも、と頭をよぎる。
「まだ引っ越すとは決めていませんよ」
正直、ここで働くことさえ決めていないのに。
「すぐそこだよ。手話ができる人もいるんだ。会ってみない?」
案内された場所は施設から100メートルも離れていない、こじんまりとしたアパートだった。
駐車場には10人ほどの人だかりができている。
今日はよく人だかりに出くわす日だ。
「あれはここの住人たちだよ。もうすぐ食事の時間なんだ」
加田崎が手話で説明した。
「今日はバーベキューらしい」
加田崎は集団の中の一人と目が合うと、手招きした。
「彼がそうだよ」
あぁ、手話ができる人のことか。
僕はとりあえず手話で〈初めまして〉と挨拶した。
当然、相手は不思議そうな顔をしている。
彼も手話で返してきた。
〈誰?〉
〈ここの職場に面接に来た者です〉
〈…ということは、ここで働くの?〉
〈いや、まだ分からないけど…〉
〈?〉
僕は横にいる加田崎を指さし、目を丸くして〈なぜか、この人に連れてこられたんです〉
その仕草を見た彼は、突然吹き出して笑った。〈なるほどね〉
加田崎は仕事が残っているからと、施設の事務所へ戻っていった。
僕たちはそれから簡単な自己紹介を交わした。
〈僕の名前は「かすが ともろう」〉
僕は彼に見やすいように、目の前でゆっくりと指を動かした。
手話では「指文字」を使ってかな書きをする。名前を伝える時はたいていそうだ。
彼は読み取り終えると、大きく頷いた。
彼の名前は「平石 源太」。
しかめっ面の僕とは違って、爽やかで表情豊か、好感度の高そうなろうの若者だった。
平石も手話で話せる相手に出会えて嬉しそうだ。
生の手話で会話するなんて、何年ぶりだろう。
僕はネットで手話仲間と語り合うことが多いけど、オンライン手話とはやっぱり違う。
何が違うって?感じる喜びが全然違うんだ。
バーベキューの香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。
カセットコンロで調理していた若い女性が、僕たちにもプレートを持ってきてくれる。
平石は手刀を切る仕草でお礼を言った。彼女も手話使いらしい。
皿には焼きたての肉と、黄金色に輝く輪切りのトウモロコシが盛られていた。
僕は平石が食べ始めるまで、じっと様子を伺っていた。
彼は口の中で肉をむしゃむしゃ噛みながら、僕に手を振った。
〈君も食べなよ、見てないで〉
食事が終わると、平石はコンロのそばで片づけをしていた「船橋」という寮舎のリーダーを紹介してくれた。小柄で少し丸みを帯びた初老の男性だ。
〈何か困ったことがあったら、この人に言えばいいよ〉
船橋は手話で紹介され、屈託なく笑った。
僕は素直に会釈する。
「料理は食べたかい?美味しかった?」
船橋は健聴者のようで、口話で僕に尋ねた。口の動きが読み取りやすい。
「平石君が君をとても気に入ってるみたいだね」
「手話ができるので、お互い嬉しいんです」と僕は答えた。
「そうか、これからよろしくな」
僕は平石と船橋に向かって軽く頷いた。
どうやら、しばらくここで働くことになりそうだ。
つづく
最後までお読み頂きありがとうございます。この作品はランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。

Follow @hayarin225240

