施設の中は夕食の真っ最中だった。

大きなテーブルを囲むお年寄りたち。懐かしい光景だけれど、僕はこの日常に飽き飽きして辞めてしまった人間だった。

空の食器を抱えたジャージ姿の女性スタッフとすれ違い、僕は軽く会釈する。

食堂の中では、黙々と食べ続ける老女や、うんざりした表情でスプーンを投げ出す男性の姿が見える。

若い女性スタッフがその男性に近づき、「今食べておかないと、後でお腹が空いても知りませんよ」と諭していた。

思わず苦笑する。本当に懐かしい光景だ。

「聞こえたの?」

加田崎が不思議そうに尋ねた。

「いいえ、口の動きでだいたい分かります」

僕が答えると、加田崎は納得したように頷き、話を続けた。

「熊本から来たんだよね。今はどこに住んでるの?」

「博多区春和町のアパートです」

加田崎は眉を寄せた。

「結構遠いね。車は持ってるの?」

「ほとんど徒歩で移動してます」

「良かったら、うちの寮に引っ越してこない?すぐ近くにあるんだ」

そう言って、加田崎は歩き始めた。僕は答えずに、黙って彼の後をついていった。

話の展開があまりにも早い。

どうも、ここはよほどひどい職場なのではないかという気がしてきた。

施設内をしばらく歩くと、加田崎は突然立ち止まり、振り返った。

「そうだ!今から寮に行こう」

これはブラック企業確定かも、と頭をよぎる。

「まだ引っ越すとは決めていませんよ」

正直、ここで働くことさえ決めていないのに。

「すぐそこだよ。手話ができる人もいるんだ。会ってみない?」

案内された場所は施設から100メートルも離れていない、こじんまりとしたアパートだった。

駐車場には10人ほどの人だかりができている。

今日はよく人だかりに出くわす日だ。

「あれはここの住人たちだよ。もうすぐ食事の時間なんだ」

加田崎が手話で説明した。

「今日はバーベキューらしい」

加田崎は集団の中の一人と目が合うと、手招きした。

「彼がそうだよ」

あぁ、手話ができる人のことか。

僕はとりあえず手話で〈初めまして〉と挨拶した。

当然、相手は不思議そうな顔をしている。

彼も手話で返してきた。

〈誰?〉

〈ここの職場に面接に来た者です〉

〈…ということは、ここで働くの?〉

〈いや、まだ分からないけど…〉

〈?〉

僕は横にいる加田崎を指さし、目を丸くして〈なぜか、この人に連れてこられたんです〉


その仕草を見た彼は、突然吹き出して笑った。〈なるほどね〉

加田崎は仕事が残っているからと、施設の事務所へ戻っていった。

僕たちはそれから簡単な自己紹介を交わした。

〈僕の名前は「かすが ともろう」〉

僕は彼に見やすいように、目の前でゆっくりと指を動かした。

手話では「指文字」を使ってかな書きをする。名前を伝える時はたいていそうだ。

彼は読み取り終えると、大きく頷いた。

彼の名前は「平石 源太」。

しかめっ面の僕とは違って、爽やかで表情豊か、好感度の高そうなろうの若者だった。

平石も手話で話せる相手に出会えて嬉しそうだ。

生の手話で会話するなんて、何年ぶりだろう。

僕はネットで手話仲間と語り合うことが多いけど、オンライン手話とはやっぱり違う。

何が違うって?感じる喜びが全然違うんだ。

バーベキューの香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。

カセットコンロで調理していた若い女性が、僕たちにもプレートを持ってきてくれる。

平石は手刀を切る仕草でお礼を言った。彼女も手話使いらしい。

皿には焼きたての肉と、黄金色に輝く輪切りのトウモロコシが盛られていた。

僕は平石が食べ始めるまで、じっと様子を伺っていた。

彼は口の中で肉をむしゃむしゃ噛みながら、僕に手を振った。

〈君も食べなよ、見てないで〉

食事が終わると、平石はコンロのそばで片づけをしていた「船橋」という寮舎のリーダーを紹介してくれた。小柄で少し丸みを帯びた初老の男性だ。

〈何か困ったことがあったら、この人に言えばいいよ〉

船橋は手話で紹介され、屈託なく笑った。

僕は素直に会釈する。

「料理は食べたかい?美味しかった?」

船橋は健聴者のようで、口話で僕に尋ねた。口の動きが読み取りやすい。

「平石君が君をとても気に入ってるみたいだね」

「手話ができるので、お互い嬉しいんです」と僕は答えた。

「そうか、これからよろしくな」

僕は平石と船橋に向かって軽く頷いた。

どうやら、しばらくここで働くことになりそうだ。

 

つづく

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